天保6年3月天明天保の飢饉では、悪疫を免れた町民たちが丈余の石に社号(牛頭天王)を刻み、新町西端に奉祀しました。 その後、上栄道入口東側に移し、更に明治19年旧枡形に社殿を造営して移祀し、社地を寄進しました。